年末年始の感染者数を聞き、身近に年寄りがいることもあって、さすがに正月の寄席通いを控えました。客席も楽屋もできる限りの感染対策をしていましたが、1月半ば、不運にも落語界から陽性者が出て、長期休席にしたり、興行を休止したところもあります。
先行きが見通しにくいので、今回は現実とはちょっと距離を置き。昼席と夜席の違いについての私論をまとめてみます。ややマニアックなテーマですが、お好きな方はお付き合いください。
上野鈴本演芸場は昼夜の興行の入れ替えをしていますが、その他の寄席は基本的に昼の開演から夜の終演まで、どこで入ってどこで出てきても構わない「流し込み」で興行しています。昼席も夜席も、落語や講談が2席続いたら色物をはさんで変化をつけるというように、やっていることには何ら違いはありません。でも同じようでいて、少し違う。
ご存知だとは思いますが、寄席興行はもともと夜席が中心でした。江戸時代から大正時代くらいまでは各町内に寄席があり、仕事を終えてから寄席で遊ぶのが当たり前。ほかに娯楽が少なくて通いやすかったから、名人上手が連続物の怪談や講談をトリの高座にかけるという形もできてきました。繁華街にあった寄席のいくつかでは昼席を設けて、昼遊びにも対応していましたが、そんな小屋でも興行上の勝負は夜席でした。その流れが一気に変わったのが、アメリカによる空襲と敗戦の影響です。
都内で焼け残った寄席は人形町末廣だけ(今はありません)。すぐに上野鈴本演芸場が仮設で再開し、敗戦の翌年には新宿末廣亭が創業します。焼け跡に闇市が立っていた時代、人びとは笑いに飢え、これらの寄席はどこも大入りだったといいます。ところが夜は物騒で、人は夜遅くにはうかつに出歩かなかった。寄席も昼からやって、夜は早くにハネ(終演する)ていました。
そんな時代の新宿の夜席に出ていた五代目柳家小さん師匠(当時は小きん)が、新宿駅で電車を待っているときに、通りがかりの暴徒にアッパーカットを喰らったことがあります。腕に覚えのある五代目の師匠でも殴られることがあるのだと驚きましたが、戦後すぐの都心部はそのくらい荒くれた場所だったのでしょう。もしあの物騒な時代がなければ寄席の昼席という制度はできなかったかもしれない、と小さん師匠は本の中で語っています(柳家小さん著/川戸貞吉編『小さんの昔ばなし』より)。
もちろん、夜が物騒だったのはわずかな期間だけのこと。昭和の高度成長期には、住まいを郊外に移し、そこから都心の会社や工場に通勤する人が増えます。あちこちに巨大な団地が建ったのもこの時代。都心から電車で1時間ほど離れた我が家に帰らなければならないとなると、夜席に足しげく通うわけにもいかなくなり、次第に昼席の重要性が高まっていきます。
昭和52(1977)年の各席の出演者一覧を見ると、昼席にも夜席にも同じ比重でベテランや人気者が出演しています。その年の2月上席(1~10日)の主な出演者は以下の通りです。
[上野鈴本演芸場]
・昼席主任/桂米丸、ほかに三遊亭圓遊(先代)、桂文朝など
・夜席主任/桂伸治(十代目文治)、ほかに桂小南(先代)、雷門助六(先代)など
[新宿末廣亭]
・昼席主任/柳家小さん(先代)、ほかに林家三平(先代)、春風亭柳朝(先代)など
・夜席主任/三遊亭圓歌(先代)、ほかに春日三球・照代、古今亭圓菊など
[浅草演芸ホール]
・昼席主任/春風亭柳昇、ほかに玉川スミ、桂枝太郎(先代)など
・夜席主任/三遊亭圓馬(先代)、ほかに三笑亭笑三、桂伸治など
[池袋演芸場(夜席のみ)]
・夜席主任/林家こん平、ほかに立川談志、古今亭圓菊など
落語芸術協会が上野に出ていたり、林家こん平師匠が若手真打だったころの記録です(雑誌『落語界 No17』1978年2月新春号参照)。私はまだ高校生でしたが、知人を誘って新宿の夜席に行って春風亭柳好師匠(先代)の「禁酒番屋」で爆笑した記憶があります。どの席も昼夜にかかわらず賑わっていたように見受けられるのですが、はたして実際はどうだったのでしょう。
さて近年は、高齢者人口が増えたこととも関係するのでしょうが、昼席を楽しんだ後に仲間や家族と食事をするというスタイルが日常的なレジャーとして定着し、平日、週末にかかわらず昼席は安定して賑わっていました。かたや夜席はやや苦戦を強いられ、落語ファンや寄席とは縁がなかった若い人たちに来てもらおうと、人気の師匠がネタ出し(演目を予告すること)したり、個性派や若手真打によるトライアル的な興行が増え、その効果が徐々に出はじめていました。力のある若手が次々に現れたことも、夜席の番組の魅力を高めた要因でしょう。
どなたがトリをとるのかにもよりますが、昼席の観客はトリまで聞かずに席を立つこともありますが、夜席の観客はわりと最後まで残ります。お目当てを聞くために来ているのですから、たまたま来てしまった人を除けば、それが当たり前です。新作派をずらりと並べたり、若手が次々に登場するような夜席ならではの賑わいに触れて、落語や講談の楽しさ、寄席の面白さに目覚めた新しいファンも生まれています。
ほんわかとした笑いが楽しめる昼席、いくらかエッジが効いた高座が期待できる夜席、ひとことでいえばそんな住み分け。お笑いが好きな年配層やファミリー層と、特別なものを求める演芸ファン――この両者のバランスをうまく保ちながら寄席は賑わっていくのだろうと思っていた矢先に起きたのが、コロナ禍です。頼りの年配層の足がピタリと止まり、それは特に昼席の入りに大きな影響を与えます。マスクを着け、検温して中に入ってしまえば、ソーシャルディスタンスもきっちり確保されているので不安を感じることはないのですが、迷惑をかけたくないから出掛けにくいというのもよくわかります。寄席が再び勢いを得るのは、いつのことになるのでしょう。
そんな中で、「鯉八らくご」とも呼ばれる独特な創作落語を演じる若手真打の瀧川鯉八師匠が新宿の夜の部のトリをつとめ、人気を集めています。新作派の春風亭昇々さんや立川吉笑さん、浪曲の玉川太福さん、漫才の宮田陽・昇先生、若手真打の柳亭小痴楽師匠や瀧川鯉橋師匠、太神楽の鏡味正二郎先生、トリの瀧川鯉八師匠と続く終盤は現実を忘れかけるほどの盛り上がり。夜席ならではの熱に触れたあの若いお客さんたちが、再びふらりと寄席に遊びに来てくれる。そんな時代が早く戻ってくるといいですね。
新宿末廣亭1月下席の出演者など
1961年東京生まれ。出版社勤務からフリーランスに。編集者、伝記作家。著書に『寄席の底ぢから』(三賢社)。落語は好きで、DVDブック『立川談志全集 よみがえる若き日の名人芸』(NHK出版)や、『談四楼がやってきた!』(音楽出版社)の製作に携わる。ほかに水木しげる著『ゲゲゲの人生 わが道を行く』、ポスターハリスカンパニーの笹目浩之著『ポスターを貼って生きてきた』、金田一秀穂監修『日本のもと 日本語』などを構成・編集。