2017.05.30
86分に入り、気づけばぼくは危うく涙しそうになっていた。ぼくのアーセナルが、13度めのFAカップで記録的な勝利を収めようとしていたからじゃない。華麗なるチェルシーが相手では勝ち目はないと、イギリスの誰もが考えたにもかかわらず、いまアーセナルがみずからにふさわしい勝利をつかもうとしていたからでもない。苦難のシーズンのなかではベストとはいえ、みごとなプレーだったわけでもない。
ヴェンゲル監督の胸中を思ってのことだった。
ヴェンゲル監督は、アーセナルの長い歴史のなかの最盛期をもたらしてきた。きょうの優勝によって、FAカップで初めて7勝を達成した人物になった。(きのうまでは、アストン・ヴィラの監督だったジョージ・ラムジーと6勝で並んでいた)別の見方をすれば、アーセン・ヴェンゲルの率いるアーセナルは、FAカップの優勝回数で言えば、"アーセンなきアーセナル"にもまさっている。
あのとほうもない"インヴィンシブル"のシーズンにも引けを取らない成果だ。これをしのぐ記録が生まれることはないだろう。とりわけ、同じクラブの同じ監督のもとでは。(何しろ近ごろの監督はたいがい1、2シーズンでいなくなってしまうのだから、理屈からしてほぼありえない)
アーセナルへのヴェンゲル監督の貢献度に議論の余地はないのに、今シーズンは数多のファンからおぞましいほどの暴言を浴びせられてきた。スタジアム上空に飛行機を飛ばして、"ヴェンゲル・アウト"のメッセージ入りの旗をひるがえらせた者たちもいた。一部のファンは、アーセナルが負けるとかならず同じメッセージの横断幕を掲げた――まるでアーセナルのお粗末なプレーを期待しながら観戦しているかのようだった。ネット上でも血祭りに上げられた。だいじな試合の前には、反ヴェンゲルのデモが計画された。謹厳実直な人物を寄ってたかっていじめる展開になり、当人は間違いなく傷を負った。
プレミアリーグのシーズン最終戦のあと、ヴェンゲル監督の動揺は傍目にも明らかだった。来シーズンのチャンピオンズリーグ出場権が与えられるトップ4から、惜しくも陥落してしまったからだ。試合後のインタビューでヴェンゲル監督は、アーセナルへの熱い思いをわかってほしいと、ほとんど懇願せんばかりの口調だった。
だから、2017年のFAカップでの優勝は――フットボール史上、最も由緒ある大会で勝ったことは――贖いと雪冤の大いなる物語だった。今シーズンに監督を容赦なく嘲った者たちは、きょうの結果におのれを恥じるがいい。
ヴェンゲル:史上最高のFAカップ優勝監督。
1970年、ロンドン東部のロムフォード生まれ。オックスフォード大学で古代史と近代史を専攻。92年来日し、『ニューズウィーク日本版』記者、英紙『デイリーテレグラフ』東京特派員を経て、フリージャーナリストに。著書に『「ニッポン社会」入門』、『新「ニッポン社会」入門』、『驚きの英国史』、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>』など。最新刊は『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(小社刊)