三賢社

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Buatsui Soup | コリン・ジョイスのブログ

ワールドカップといえば

2018.07.07

ワールドカップについて書きたくなるときもあるけれど(あのPK戦!VAR判定って?)、考えがまとまるころには大会は先に進んでしまっている。きのうの夜にブラジルが4点ものオウンゴールの果てに7-6で辛勝したというのに、どうして今ごろドイツの予選敗退のことなんか書くのかというふうに、読者にいぶかられるだろう。

でもぼくはワールドカップに少しばかり関係のある、自分のとある変化にふれておきたかった。ようやく日本の国歌を歌えるようになったという話だ。これまで手をつけなかったのがふしぎだ。日本に来て最初の年にこなしていてしかるべきだったとは思うけれど、当時(1992年)はよく日本人から、誰も歌わないと言われた。妙な話だと思ったものの、あのころのぼくにはふしぎなことだらけだった。ぼくらイギリス人学生がひどく驚いたのは、日本のお金に天皇の顔が出てこないこと。イギリスの紙幣や硬貨には女王の顔が描かれているのに。ぼくは国歌が歌われないのも、似たようなたぐいの謎なのだろうと考えた。

かくしてぼくは早いうちに〝君が代〟を覚えたりはせず、それからの数十年、「今すぐ」覚えなくていけない特段の理由もなかった。そして今回のワールドカップまでにちゃんと覚えて、現状を正そうと決めたわけだ。正直言って歌いづらかった。歌っても調子がはずれっぱなし。おそらくイギリスの人間の感覚にはなじまない編曲なのだ。とはいえいったんこつをつかむと、なかなか心を動かす曲だと感じたし、全体的にはイギリス国歌よりも好みだ。もうひとつの発見は――わかりきった話で申し訳ないが――とびきり短いこと。だからなおさら、これまで覚えなかったのが恥ずかしい。ぼくが考えていたほどの大仕事ではなかったのだ。

そんなわけで今は、3つの国歌の歌詞を知っているというジョークを口にしている。イギリス、日本、スペインの国歌だ。言うまでもなく、3つめの国歌に歌詞はない。

友人があるときぼくに唱えた説によれば、日本の国歌斉唱がふつうになったのはサッカーによるものだという。どの国も試合前に国歌を流し、選手やファンにとっては歌うのがふつう。そしてここ30年、日本も国際試合に参加するようになったことで国歌斉唱があたりまえになったのだ、と。そういう意味では、ぼくも多くの日本人と同じだ(ただしぼくの場合は、ほんとうにのだけれど)。

自国の国歌を歌うのは、やはり自然なことだと思う。ただひとつ、歌わないことよりも解せないのは、国歌斉唱の強制だ。

連載
コリン・ジョイス Colin Joyce
コリン・ジョイス
Colin Joyce

1970年、ロンドン東部のロムフォード生まれ。オックスフォード大学で古代史と近代史を専攻。92年来日し、『ニューズウィーク日本版』記者、英紙『デイリーテレグラフ』東京特派員を経て、フリージャーナリストに。著書に『「ニッポン社会」入門』、『新「ニッポン社会」入門』、『驚きの英国史』、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>』など。最新刊は『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(小社刊)