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Buatsui Soup | コリン・ジョイスのブログ

マイナーで、フツーな傑作コメディ

2016.08.24

イギリス人であるならば、この国で作られた主な映画をすべて見るのは「義務」のようなものだろう。

イギリスの映画産業は、かつて繁栄していた。それがほとんど死に絶え、なんとか持ちこたえ、やや上向きになり、また低迷期に入り、ときに当たり年があり……。しかし全体として、ぼくが大人になってから作られた「まともな」映画はそれほど多くないから、主な作品をほぼ見ておくことは不可能ではないし、全部押さえることもできる。ぼくのような「根っからのイギリス人」は、当然フォローしておかないといけない。

とくにぼくが育った1980年代にはイギリス生まれの映画が多くなかったので、国内製作の映画は大変な注目を集めた。文化史に刻まれる出来事とはいえなくても、ニュースではあった。

『ビギナーズ』が公開されたとき、映画評論家は野心的すぎる凡作と評したが、あのときの過熱報道はよく覚えている(「デビッド・ボウイが出演!」)。『炎のランナー』はすばらしく、『リタと大学教授』は過大評価され、『マイ・ビューティフル・ランドレット』はバタバタした駄作で、『未来世紀ブラジル』は名作だ。

そのころ意識的に避けていた映画がある。『時計じかけの校長先生』だ。

当時のぼくはひどい不安症だったので、この作品のように何もかもが悪い方向に進むという筋立ての映画は大嫌いだった。『時計じかけの校長先生』がその手の映画であることは知っていたし、ハッピーエンドが訪れないことも知っていた。30年前にこの映画を見ていたら、大ショックを受けていただろう。

でも、大人になって(ほんの少しだけ)落ち着きを得た今見てみると、この作品は「きちんとしたイギリス映画の古典」だと思える。「古典」というのは「必見の作品」ということではなく、「イギリス映画の特徴をたくさんそなえている」という意味だ。

この作品は、時間を守ることに異常な執着を持つ校長先生が、人生で最も重要な会合に行こうとする(そして失敗する)物語だ。時計の針は進むが、状況はどんどん悪くなっていく。

この作品には、傑作コメディに欠かせない要素がそろっている。誤解、災難、ありえない偶然。その場にまったくふさわしくない格好でスピーチをするはめになったり、物語の進展とともに人格が崩壊していったりする。

イギリスらしい風景を見ることもできる。美しい村々と、すばらしい田園地帯(そこを車が爆走する)。

体を使った笑いもある。ジョン・クリーズ(モンティ・パイソンの彼だ)は立ち往生した車をいらついて蹴飛ばすのだが、そっくり返って泥の中に倒れてしまう。一拍おいて泥の中から片方の靴を拾い、さらに一拍おいてもう片方を拾う。すばらしい。

都会と田舎の対立の構図もある。たとえば、こんなふうに視覚に訴える笑いだ。都会の人が田舎の人と生け垣をはさんで話をしており、そのせいで彼は田舎の人がトラクターに乗っていることがわからない。それこそ彼がまさに必要としているものなのに……。

偉大な俳優も出演している。アリソン・ステッドマン(ぼくが大好きな女優だが、残念なことにあまり起用されない)に、ペネロープ・ウィルトン(テレビドラマの『ダウントン・アビー』で知っている人もいるかもしれない)。

それに、この作品は(偶然にも)時代を完璧にとらえている。1980年代半ばの髪型や車、ボックス型の壊れた公衆電話。ぼくたちが学校で歌わされていた聖歌や、自習時間に「今は自習時間だ、自由時間じゃない」と言う先生たちまで出てくる。まさにぼくが覚えているとおりだ。

大変な傑作というわけではない。いささか「バニラ味」と言いたくもなる(たいていの人が好きだが、大好きという人はほとんどいない)。けれども、本当にイギリスらしい映画であることはまちがいない。

連載
コリン・ジョイス Colin Joyce
コリン・ジョイス
Colin Joyce

1970年、ロンドン東部のロムフォード生まれ。オックスフォード大学で古代史と近代史を専攻。92年来日し、『ニューズウィーク日本版』記者、英紙『デイリーテレグラフ』東京特派員を経て、フリージャーナリストに。著書に『「ニッポン社会」入門』、『新「ニッポン社会」入門』、『驚きの英国史』、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>』など。最新刊は『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(小社刊)