2016.10.17
イングランドに〈メトロ〉という日刊紙があるが、無料とはいえ、ぼくは手に取ったりしない。深みのない記事、あと追いの報道、やたらと"セレブ"にご執心という、毒にも薬にもならない新聞。だが、今日わざわざ駅で入手したのは、第一面の記事が......マーマイトだったからだ!
マーマイトは、日本のみなさんにはなじみがないだろうが、イギリスではおそらく最高の認知度を誇る製品だ。いちおう食品で、黒くてべとべとした、トーストに塗るペースト。大好きな人もいれば、きらいな人もたくさんいる。しかし、イギリス人としてのぼくらのアイデンティティと、一種独得のかたちで深く結びついている。人や何かについて「マーマイト並みにイギリス的」と言えば、意味するところはすぐに通じる(つまりは、とことんイギリス的ということ)
ぼくはふつう週に1、2回は食べるが、何カ月も口にしないこともある。だが、国を愛するイギリス人として、自宅にひと瓶は常備してある。その味を好まなかったり――好まないどころか――味見さえ拒んだりする人がいると、いささかむっとする。
それはともかく、どうやら"マーマイト危機"が迫っているらしい。
込み入った話なのだが、マーマイトのブランドを所有するユニリーバという会社が値上げを図り、大手スーパーマーケットチェーンのテスコが値上げ価格での取引を拒否しているという。交渉の行き詰まりのせいでテスコにマーマイトの在庫がなくなるかもしれないという、まさかの展開なのだ。
これには政治的な背景がある。EU離脱をめぐる国民投票を境にポンドが打撃を受けているので、そのうち輸入食品の価格が上がるはずだ(その仕組みはおわかりいただけると思う)。とはいえ、マーマイトはイギリス製なので、フランスのカマンベールチーズのようにユーロで仕入れたり、オーストラリアのワイン〈ジェイコブス・クリーク〉のようにオーストラリアドルで仕入れたりするわけではない。
だからテスコは(そしてイギリスの人民は)、マーマイト価格の高騰を是としない。しかしユニリーバは、輸入品に限って大幅に売値を高くするのではなく、商品の生産地に関わらず、自社製品の価格を軒並み上げたいようだ。
ぼくがビジネス関連の話にこれほど興味を示すことはめったにないし、〈メトロ〉紙が企業間のもめごとを大々的に取り上げることもめずらしい。マーマイトにはみんな熱くなるのだ。
イギリスのぼくらはいま、EU離脱が何をもたらすのかを見守っている。もしマーマイトの消滅(もしくは法外な価格のマーマイト)という結果になれば、ひと騒動あるかも!
1970年、ロンドン東部のロムフォード生まれ。オックスフォード大学で古代史と近代史を専攻。92年来日し、『ニューズウィーク日本版』記者、英紙『デイリーテレグラフ』東京特派員を経て、フリージャーナリストに。著書に『「ニッポン社会」入門』、『新「ニッポン社会」入門』、『驚きの英国史』、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>』など。最新刊は『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(小社刊)