2018.07.10
栄光のワールドカップという戦いのあいだイングランドを応援する心持ちを、言葉で言い表すのはむずかしい。ぼくらの大半は悲嘆あるいは無念、多くはその両方しか味わったことがない。ぼくに言えるのは、宗教体験めいた感覚を帯びているということくらいだ。
最初は不信の念から始まった。開幕前はぼくの知る誰ひとりとして、ロシア大会でのイングランドの快進撃を信じてはいなかった。これまでぼくらは幾度となく落胆させられていて、なかでもひどい思いをしたのは2年前、ユーロ2016のアイスランド戦での敗北だった。
グループリーグの初戦、チュニジアを相手に終了間際に勝ち越しのゴールが決まったことで、イングランド代表チームをふたたび信じ、愛することができるかもしれないという思いへと、人の心が傾き始めた。
パナマ戦の圧勝は、まさに歓喜。勇猛な"3頭の獅子"たち! 続くベルギー戦の敗北を受けて、ぼくらは想定内という賢者の声に耳を傾けるしかなかった。「2位通過のほうが有利なブロックに入れる……監督の意向だ……優勝争いへの近道だ……」
"モスクワの奇跡"、すなわちイングランドがワールドカップで初めてPK戦に勝ったことで、なおも残っていたあまたの不信心者が改心した。この場面を見守っていた者にとっては、通過儀礼とも言うべき体験になった。「しくじるかもしれないとも思ったが、なぜだかいけるという確信があって……」
準々決勝のスウェーデン戦を突破したいま、すべての民が信じている。ぼくらはみな、同じ聖歌を口にする。「フットボールが帰ってくる」、と。
ぼくらが特定の歌ばかり歌うのはめずらしい。ぼくはずっとイングランド代表を追いかけてきた。2002年には東京、2004年にはポルトガルにいて、ぼくらは数々の歌でアルゼンチン人を、ドイツ人を、スコットランド人を愚弄した(スコットランドのことはいつか改めて説明したい)。ぼくらはとりわけ「聖ジョージをわが胸に、われをイングランドの民たらしめ給え」という歌で神に訴えた。けれど2018年、ぼくらは「フットボールが帰ってくる」とばかり歌っている。
この歌が生まれたのは1996年、イングランドが欧州選手権の開催国になった年だった。サッカーを"生み出した"イングランドが大きな国際大会を主催することで、サッカーが母国に戻ってきた、という発想だった。
ところがいま、同じ歌が別の意味を持つようになっている。イングランドはサッカー界最高の栄誉を勝ち取ることで、サッカーの魂のふるさとというだいじな言い分を改めて主張する、という含みがあるのだ。
スウェーデン戦のあと、ぼくは友人と、ふたりともイングランドのユニフォーム姿でロンドンを歩いた。イングランドのファンが、言葉を交わそうとぼくらを呼び止める。そして「帰ってくる」と口々に言う。「然り。帰ってくる」と、ぼくらは応じる。ある人が「帰ってくるのか?」と、まるで祈祷書の文言のように尋ねた。「まさしく、帰ってきます」と、ぼくらは唱えた。
そのあとぼくは、パブの階段で人にぶつかりそうになった。ぼくらはおきまりの「すみません、どうぞお先に」というやりとりのかわりに、一瞬のうちに互いが同じ赤のイングランドのユニフォーム(2004年もの)を着ていることに気づいて、うなずき合って言った。「帰ってくる」と。
まことわれらは幸いなり。神の恩寵によるイングランドの民。
1970年、ロンドン東部のロムフォード生まれ。オックスフォード大学で古代史と近代史を専攻。92年来日し、『ニューズウィーク日本版』記者、英紙『デイリーテレグラフ』東京特派員を経て、フリージャーナリストに。著書に『「ニッポン社会」入門』、『新「ニッポン社会」入門』、『驚きの英国史』、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>』など。最新刊は『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(小社刊)