2018.12.24
クリスマスの何週間か前に、イギリスのとある人気サイトのオンライン投票で1票を投じた。そこでの質問は"もしできるとしたら、クリスマスを取りやめにしますか?"というもの。集計を見て驚いたのだが、男女を問わず複数の年齢層にわたって"はい"が大半を占めていた。クリスマスを祝うのに賛成派が多数だったのは、幼い子供のいる人たちだけだった(当然ながら、子どもに投票権があればやはり賛成票を入れるだろう)。
オンライン投票を過信してはいけないが、クリスマスがきらいな人がたくさんいるという事実は示しているはずだ。にもかかわらず、そういう話はめったに耳に入ってこない。言うなれば、声にならない叫び。クリスマスとは厄介なもの、無意味で破滅をもたらすものと見なすようになったのは、ぼくくらいだと思っていたからうれしかった。
もとをたどれば、クリスマスとはキリスト教徒のお祭りだ。イエス・キリストの誕生祝い。キリスト教徒にその日を祝うのをやめさせたいという意味で、クリスマスの"取りやめ"に賛成した人なんて、ひとりもいないんじゃないだろうか(ぼくだってそうじゃない)。クリスマスは圧倒的多数の人たちにとって宗教とはなんの関係もない、まったく別のもの――しかも、ありがたくないものという意味なのだ……ぼくの見かたでは。
一世代前でさえ、クリスマスには非宗教的な性質の、特殊な意義があったと思う。それは年に1度の大宴会。"飲んで食べて楽しむ"日だった。クリスマスともなれば祖父があたうかぎり大きな七面鳥を買い込むせいで、母や家族は以後2週間にわたり七面鳥の消費に必死だったという話を、ぼくは気に入っていた。ほかにもミンスパイ! クリスマスプディング! てんこ盛りのローストポテトが!
むかしと違うのは、今のイギリスの人たちは(ぼくもご多分にもれず)年がら年じゅうたらふく食べたり飲んだりしているということ。膨張を続ける腹回りからも明らかだ。食べすぎ飲みすぎなんて、運動する人などほとんどいない冬のさなかにやるようなことじゃない。なのに、ぼくらはまさにそれをやっている。
クリスマスは、子どもたちが新しいおもちゃ(そして甘いもの)をもらえる特別な日でもあった。だが現代の子どもたちは、一年じゅう新しいものをふんだんに与えられている。ほしくてたまらず待ちかねていたものをもらったときの、夢見心地を味わうことなどめったにない。子どもの使ってもいない持ちもので部屋全体が占拠されている家を、ぼくは何軒も知っている(子どもがいちばん好きなものは、子ども部屋に置いてある)。そんな部屋を人は"プレイルーム"なんて呼んだりするけれど、実際には"物置部屋"だ。
誰もがクリスマスの爆買いを「狂気の沙汰」と評したそばから買いものに出かけては、前年を上回る費用を投じる。
そういう行為は金銭のむだというだけでなく、環境面でのむだも多い。さらに悪いのは、若い人たちに間違ったメッセージを送っていることだと思う。ほしいものはなんでも手に入る、お次のものがどんどんやってくる、何に対してもとりたてて感謝の念をいだかなくていい……。
クリスマスの何が最低最悪かというと、みんなほとんど楽しんでいるようには見えないことだ。(全然ありがたがられないこともよくある)高価なプレゼントの大量購入や、食べもののじゅうぶんな(過剰な!)確保にストレスを感じている。クリスマスには口論が激化する(いっしょに楽しく過ごすのを強いられることほど、楽しく過ごすのに最悪のやりかたはないからだ)。じっさい、離婚の急増を招いている。ぼくの個人的な経験から言えるのだが、多くの人がクリスマスをめぐるできごとが原因の、忘れがたい恨みをかかえている。
数多の人がクリスマスのために、そんな余裕もないのに数百、数千ポンドを費やして借金をこしらえる。クレジットカードを使ってから、2月になって最低返済額すら払えないことに気づく。だからぼくは今ではクリスマスを、キリスト教徒のお祭りとか、家族が集合する年中行事とかではなく、すさまじいまでの大量消費の宴と見なしていて、そのなかでぼくらは、環境面でのむだの多い資本主義制度のよき歯車となるべく、互いに切磋琢磨しているのだと思う。
クリスマスを取りやめにできたらいいのに。というか、クリスマスを"初期化"できればいいのにと切に願う。
ハッピー・クリスマス!
1970年、ロンドン東部のロムフォード生まれ。オックスフォード大学で古代史と近代史を専攻。92年来日し、『ニューズウィーク日本版』記者、英紙『デイリーテレグラフ』東京特派員を経て、フリージャーナリストに。著書に『「ニッポン社会」入門』、『新「ニッポン社会」入門』、『驚きの英国史』、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>』など。最新刊は『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(小社刊)