2016.10.07
サム・アラダイス元監督の話題を蒸し返して申し訳ないが、ぼくはみんながもっとアラダイスには用心すべきだと思っていた。多くを望む権利があると考え、おとがめなしで済むと思い込んでいる。そんな人物であることをうかがわせるような、大きな手がかりがあったからだ。
(英語では)自分を3人称で呼ぶのは悪しき兆候、というのが衆目の一致するところだ。そこにはおのれを過大評価する尊大さが見え隠れする。(ちなみに日本語だと、自分を3人称で呼ぶのは幼稚さの表れの場合もあると知って、おもしろく感じた)
ぼくはそういう話しかたをする人について、まるで自分が主役の映画のナレーター気取りとか、自分の伝記で目にしたい(目にすると見込んでいる)表現をあからさまに口にしているとか、つい考えてしまう。
例えば、ドナルド・トランプのこんなせりふが思い浮かぶ。「ドナルド・トランプがやると言ったら、ドナルド・トランプならやってくれるんだ」ズラタン・イブラヒモビッチだとこうだ。「あのチームに欠けている要素はズラタンだ。どんなチームだってズラタンがいればよくなる。だが、ズラタンはどんなチームでもプレーするわけじゃない」
アラダイス元監督は自分を3人称で呼んだばかりか、ボルトン時代のファンがつけた"ビッグ・サム"(大物サム)という尊称を使うのがつねだった。あの話しかたこそ警報と受けとめられるべきだったのに。
ともあれ、"切れ者コリン"はアラダイスを一度たりとも信用しなかった。
1970年、ロンドン東部のロムフォード生まれ。オックスフォード大学で古代史と近代史を専攻。92年来日し、『ニューズウィーク日本版』記者、英紙『デイリーテレグラフ』東京特派員を経て、フリージャーナリストに。著書に『「ニッポン社会」入門』、『新「ニッポン社会」入門』、『驚きの英国史』、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>』など。最新刊は『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(小社刊)