落語芸術協会(以下、芸協)の寄席に出ているボンボンブラザースのお2人は、洋装で伝統的な太神楽曲芸を演じるコンビです。
ピンとこない方のために一言添えれば、太神楽というのは、傘の上で鞠や酒升を廻したり、アゴや額に何かを立ててバランスをとったり、太鼓の撥や鞠などをポンポンとお手玉のように投げ上げたりする江戸由来の伝統的な曲芸で、紋付と袴の和装で高座に上がり、口上を述べながら演じるのがふつうです。
一方、鏡味勇二郎先生と鏡味繁二郎先生によるボンボンブラザースのお2人は、親方のもとでみっちり太神楽の修業をした上で、1957年(1962年とも)のコンビ結成後は洋装でこれを演じており、演目の流れや使う道具も独特です。
ノリの良い軽快なお囃子に乗って高座に出てくると、あいさつ代わりの曲芸に続けて、シャンパングラスが載ったお盆をステッキのようなものに載せて高く持ち上げ、ストンと落とす「立て物」の演目でヒヤリとさせます。この間、いっさい喋りません。
次に、繁二郎先生が鼻の頭に細長い紙を立てたまま、高座の上を行き来する演目。紙は軽いので、傾いてもパタンとは倒れません。紙が右に傾けば右に動き、左に傾けば左に動き、どうかするとそのまま高座を下りて客席通路に踊り込む。新宿末廣亭では、「道開けて!」「荷物どかして!」と言いながら桟敷席に上がり込むこともあります。そこまで動いても、細長い紙は立ったまま倒れることがないのがふしぎです。
最後に、紙を立てたまま、ただでさえ難しそうなもう一つの芸を成功させると割れんばかりの拍手が起こりますが、ここでお終いではありません。この後の帽子を使った芸のバリエーションも大きなみどころです。
三味線と太鼓は鳴らしっぱなしになるのでお囃子さんは大変だと思いますが、次々にスピーディーな芸が繰り出され、笑ったり拍手したりしているうちに、気付けば15分経っていたというのがボンボンブラザースの高座です。
さて、太神楽曲芸師が洋装で人前に出るようになったのは、1945年の敗戦後のこと。米軍キャンプやキャバレーなどの余興が多かった時代の名残りです。1951年、ボンボン先生の兄弟子に当たる先生方3人がキャンデーボーイズを結成(後に鏡味次郎先生と鏡味健二郎先生の2人になり、キャンデーブラザースに)。芸協の寄席にも出演し、洋装で高座に上がり、喋らずに芸を見せるというスタイルをつくりました。その弟分だというので、キャンデーにウイスキーボンボンのお菓子つながりで、ボンボンブラザースというコンビ名になったのです。
ご存知の方もいるでしょうが、髭を生やした繁二郎先生は堺正章さんの従兄弟に当たります。親世代からも浪曲師(港家小柳丸)や映画俳優(堺俊二)を輩出するなど芸能に縁の深い一族でもあり、鼻の頭に紙を立てたり帽子を使った独特の芸でお客さんを楽しませよう、笑わせようとする姿には、そうした血脈を感じます。
一方の勇二郎先生は、いつ見ても凛々しさに溢れています。実の兄弟ではないのですが、ビシッと構えた兄と、サービス精神旺盛な弟という絶妙なアンサンブルが、60年という長きに渡って活躍してきた秘訣なのかもしれません。高座で使うユニークな道具の数々は、勇二郎先生の手作りなのだそうです。ちなみに先生の声や言葉を、私は高座で一度も耳にしたことはありません。
さて、太神楽がもともと、正月や祝いの場を言祝ぐ芸能だということもあるのでしょう。芸協の真打昇進や襲名披露興行ではたいていボンボン先生が「ヒザ」をつとめ、ワッと客席を沸かせてトリの師匠に高座を渡します。もうすぐ芸協の新真打披露興行が始まり、新宿(10月中席)、浅草(10月下席)、池袋(11月上席)と興行が続くのですが、そんな様子もぜひ見ておいていただきたい。ちなみに「太神楽」は「ふとかぐら」ではなく「だいかぐら」と読みます。せっかくですから、合わせてご記憶ください。
なお、今はウィズコロナの影響で、鼻の頭に細長い紙を立てた繁二郎先生が客席まで下りてくることはありません。先生が再び客席通路や桟敷を走りまわる姿を見たときに、コロナ騒ぎは確かに終息したのだ、と感じとるような気がしています。
右が鏡味勇二郎先生、左が鏡味繁二郎先生(落語芸術協会HPより)
1961年東京生まれ。出版社勤務からフリーランスに。編集者、伝記作家。著書に『寄席の底ぢから』(三賢社)。落語は好きで、DVDブック『立川談志全集 よみがえる若き日の名人芸』(NHK出版)や、『談四楼がやってきた!』(音楽出版社)の製作に携わる。ほかに水木しげる著『ゲゲゲの人生 わが道を行く』、ポスターハリスカンパニーの笹目浩之著『ポスターを貼って生きてきた』、金田一秀穂監修『日本のもと 日本語』などを構成・編集。